SNSにおける非匿名性について
私は小学五年生のころから高校に上がる直前くらいまでずっとブログをやっていた
高校に上がり、スマートフォンを手にしてからは毎日Twitterで日々の記録を綴っていた
まだTwitterが世に浸透していなかった頃なので、フォロワーには現実の友達はおらず、趣味の合う大人たちに向かって自分の日常を発信していた
段々とTwitterをみんながやるようになった高2くらいからはほぼ知り合いがフォロワーの大半を占めるようになったものの、大学二年になる前くらいまではずっと一日に数ツイートは必ずしていた
自己顕示欲に溢れきって居た私はなるべくおもしろいことを言って呟きを見ている人を楽しませたいと常に思いながらTwitterをやっていた
今で言う、インスタ映えやらドフラミンゴ系女子やらの、流行りに乗っている人のことなんかを批判するのがおもしろいと思いこみ、日々そういった類のことを呟いていた
しかし最近になって一気にそういうことをインターネットに発信しなくなった
ツイートの回数は減り、内容も特に意味のあるもの、主張のあるものをしなくなった
ツイッターもInstagramも現実の友達ばかりがフォロワーにいるということもその一因である
以前はあんなに毎日書いていたブログも、今では週に一度くらいしか書かなくなった
最近、自らの中での自我の希薄化を感じる
これが大人になるということなのかとも思う
以前は誰かがその呟きを見て腹を立てるかもしれないと思いつつも、主張したいことはネットに発信し、誰かに共感してもらおうとしていた
そして認められたがっていた
私は人とは違う感性を持つ面白い人なのだと
今は、そういうことをみんなの前で言うことがなくなった
誰かを不快にさせてまでしたい主張なんて私にはない
同時にSNS上で面白いことを言うことに尽力して人気者になろうという気持ちも無くなった
こう思うようになったのは私の周囲の人間に、言い方は悪いが多少幼稚な人間が多いからだ
名前を出さなくてもなんとなく集団のだれを批判しているのかがわかるTwitterの呟き
自分の嫌なことはすぐにインターネットで他人と共有する
そういうことを平気でする成人が何人もいることに驚いた
そして少し前までそんな人間と大して変わらないようなことをしていた自分を恥じた
中学生と変わらないことを大学生になってまでやっているのは馬鹿らしい
そういうことにようやく気付けた
昔は、インターネットの怖さというのは匿名性にあった気がする
「誰が言っているのかわからない」から「怖い」という話をよく聞いた
しかしSNSの発達した今、私たち学生が恐れているのは非匿名性ではないのだろうか
「誰がこういうことを言っていた」というのはSNSのスクリーンショットですぐに広まってしまう
一つのSNSでの発言もほかの場所で拡散されてしまえば取り消すことはできない
嫌なことをどこかで言えば、あの子は嫌なことをどこそこで言っていた子、と自分が話したことのない人にまでレッテルを張られてしまう
目立つ発言をする人は現実世界で「特定」されることもある
人が見ている場所では無難に、目立たないことだけを言って、周囲に合わせているのが一番敵もつくらず穏やかにいられる
SNS以外の場所でももちろんそれは当たり前のことであり、そういうことが学べただけでも私にとってSNSは有益だった
なにか気になることがあるなら飲み会の席ででも話せばいい
酒の肴にもなるし場の空気感で話してはいけないこともなんとなくわかるだろう
とりとめがなさすぎるけど要するにネットでもリアルでも人には優しくしましょうねってだけのことを言いたかったです
以上です